「部落問題」に関する高校教科書記述の問題点に関して

                亀谷義富

(1)はじめに
  以下の感想、意見は、あくまで亀谷個人の見解であって、特定の団体、組織とは無関係です。
 誤解をされる方、誤解をしようとされる方がおられますようなので、あらかじめ書いておきます。
 ご意見などがありました、お寄せください。
 なお、すべての教科書、すべてのH28年版を検討したわけではありませんので、その点もご了解ください。

 小学校、中学校教科書に「部落問題」が出てくる。その内容の問題点は、かつて指摘したので繰り返さないが、50年前の現状認識に留まり、解消しつつあるという観点が欠落していることが最大の問題点である。
 高校の教科書であるが、日本史、現代社会、政治・経済と3種類の教科書が「部落問題」に関わっている。一言で言えば、日本史はそれなりに歴史研究の成果が反映されており、「部落問題」と肥大化、特化させず、歴史認識の中で「部落問題」にふれるというならそれなりに有意義であるが、明治以降の記述には問題点が多く、不適切な記述も多い。。
 そして、現代社会、政治経済の教科書たるや、50年前の現状認識であり、お粗末の一言に尽きる。具体例をあげながら見ていきたい。

(2)日本史教科書から
1、江戸時代
(山川、日A303、H24B5)9P
 領民たちは、大名に年貢や労役をおさめたが、武士からは安全を保護してもらう、いちだん低い身分と見下されていた。村に住むものを百姓、町に住むものを町人と呼んだ。その下には被差別身分もあった。武士と領民にも、それぞれ髪の形・服装・言葉が異なっていた。一目、一言でそれぞれの身分がわかるような社会であった。
*要点を的確にまとめている。
(東書、日A308、H28B5)10P
 江戸時代には、武士・百姓・町人(商人と職人)がそれぞれの職能によって区分され、居住地も区別された。死牛馬の処理や皮革製造などに従事させられたえたとよばれる身分の人々や、芸能や番人などで生活した非人と呼ばれる人々もいて、差別の対象となった。
*生業と夫役との区別の説明がない。
(清水、日A310,H28B5)15P
 城下町には武士だけでなく、手工業者や商人も集められ、農村部の百姓身分とは区別されて、町人身分とさせた。江戸時代の身分制が「士農工商」といわれるのはこのためであるが、実際には百姓の次・三男などが都市へ奉公に出たり、豪農豪商が御用金を納めて苗字・帯刀を許されるなど、比較的柔軟な側面もあり、そのことが民間社会の活力にもなっていた。また、百姓・町人身分の下にえた・非人といわれる賤民身分がおかれ、埋葬・葬送業務や死んだ牛馬の処理(皮革製造業)あるいは最下級官吏として警察・刑吏などの業務に従事したため、百姓・町人から差別されることになった。
*生業と夫役との区別の説明がない。
(清水、日B306,H25B5)110P
 江戸幕府は、安定した支配体制を維持するために秀吉以来の兵農分離政策をすすめた。そこで人々の社会的地位や商業は固定的となり、身分として世襲されるようになった。人々の身分は基本的に武士と農民、町人に区分されたが、他にも様々な社会集団があった。武士(武家、侍)は政治や軍事の面でさまざまな特権を持つ支配身分であった。全人口の1割にも満たない存在であったが、苗字を名のったり、2本の刀を携帯できる(帯刀)特権を持っていた。武士にも将軍を頂点に大名・旗本・御家人、さらに足軽までと幅ひろい格差があり、家柄によってさらに処遇に差がつけられた。人口は武士より少ないが、天皇家や公家なども支配階級であった。
 被支配身分としては、全人口の8割以上を占めて農業・漁業・林業などに従事していた百姓、大工や鍛冶などの手工業者である職人、商業を営む商人などがあった。百姓には、村役人・本百姓を中心に水呑百姓があり、名子・被官・譜代などとよばれる隷属農民がいた。また、職人には親方・弟子、商人にも番頭・手代・丁稚といった徒弟制度があり、上下の身分関係が強かった。
 これらの身分の下に、長吏(えた・かわた)や非人とよばれた人々がいた。彼らは、零細な農業、死んだ牛馬の解体作業、皮革製品や履き物の製造、地域の警備・見回り、刑罰の執行業務などの仕事に従事した。また、旦那場という独自の職場をもっていた。罪を犯した者が非人とされる場合があったが、もとの身分にもどることもできた。えた・非人は条件の悪い居住地を強いられ、職業や結婚などでさまざまな規制と差別を受けた。ほかの身分と見た目で区別させるために、服装や髪形にも制限がくわえられた。
 このほか、僧侶や、儒者、医者、修験者・陰陽師などの宗教者、芸能者など多様な集団を形成していた。
*賤民身分だけが、職業や結婚などでさまざまな規制と差別を受け、ほかの身分と見た目で区別させるために、服装や髪形にも制限がくわえられていたかのごとく誤解させる内容となっている。
(山川、日B307、H25B5変形)169P
 江戸時代は身分秩序が重んじられ、個人がなんらかの集団に所属し、職能に応じた身分に編成された。支配身分の武士と被支配身分の百姓・町人が、基本的な身分であった。武士は将軍を頂点にした主従関係で結ばれる大名や旗本・藩士からなり、軍役を負担し、政治と軍事を独占して統治を行い、苗字・帯刀や切捨御免などの特権をもっていた。天皇や公家、上層の僧侶・神職らも領地を与えられ、支配身分の一員であった。
 百姓は村の住民で、脳論・漁業などに従事し、陣夫役などの夫役を負担した。町人は家持の商人・手工業者らを中心とする町の住民で、伝馬役などの人足役を負担した。手工業者は、その職能に応じた技術労働の役を負担し職人と呼ばれた。このほかに、一般の僧侶や神職、修験者などの宗教者、また芸能者など、基本的な身分に収まり切らないさまざまな職業による区分があった。儒学者たちは、こうした身分に上下の序列をつけ、「士農工商」と呼んだ。
 その最下部にえた・非人などの被差別民がいた。えたは、戦国時代から近世初期にはかわたと呼ばれていたが、しだいにえたの蔑称が用いられ、17世紀末には服忌令や生類憐れみの令も出て、賤視する差別意識が定着した。彼らは村で農業に従事しつつ、死牛馬の解体処理、皮革業・履物業などを営んだ。幕府や藩は、皮革の上納と行刑役・牢番をつとめさせた。繰り返される飢饉や刑罰により新たな非人が増加し、乞食や芸能稼ぎをするとともに、行刑役や村・町の番人などをつとめた。えた・非人は、居住場所や衣服、結婚など、生活全般にわたる社会的差別を受けた。
*えたと非人との生業、夫役の違いが分からない。被差別民という方も適切ではない。被差別民だけが社会的差別を受けているという理解になる記述は不適切だ。
(山川、日B309、H28A5)186P
 近世の村や都市社会の周辺部分には、一般の僧侶や神職をはじめ修験者・陰陽師などの宗教者、儒者・医者などの知識人、人形遣い・役者・講釈師などの芸能者、日用と呼ばれる肉体労働者など、小さな身分集団が多様に存在した。そうした中で、下位の身分とされたのが、かわた(長吏)や非人などである。かわたは城下町のすぐ近くに集められ(かわた町村)、百姓とは別の村や集落をつくり、農業や、皮革の製造・わら細工などの手工業に従事した。中には、遠隔地と皮革を取引する問屋を経営する者もいた。しかし、幕府や大名の支配のもとで、死牛馬の処理や行刑役などを強いられ、「えた」などの蔑称で呼ばれた。
 非人は、村や町から排除された乞食を指す。しかし、飢饉・貧困や刑罰により新たに非人となる者も多く、村や町の番人を務めたり、芸能・掃除・物乞いなどにたずさわった。かわた・非人は、居住地や衣服・髪型などの点で他の身分と区別され、賤視の対象とされた。
 これらの諸身分は、武士の家、百姓の家、町人の家。職人の仲間など、団体や集団ごとに組織された。そして、一人ひとりの個人は家に所属し、家や家が所属する集団を通じて、それぞれの身分に位置づけられた。
*研究成果が反映された丁寧な説明である。
2,明治時代
(山川、日A311,H28A5)37P
 まず身分制については、大名と公家を華族、武士を士族、農工商を平民とあらため、1871(明治4年)には、それまでえた・非人とされたいた人びとを、いわゆる身分解放令によって平民同様とした。平民には苗字を赦し、異なる身分間の結婚や、職業の選択、居住の変更などを自由にした(四民平等)。
*四民平等の中味は新身分制度であることを説明している。
(山川、日B309,H28A5)265P
 新政府は、四民平等のたてまえや外国への体裁や民間からの建議などもあって、1871年(明治4年)8月、今後は、賤民の身分・職業を平民と同様に取り扱う、いわゆる解放令を布告した。政府が解放令を出したことの意義は大きかったが、それに見合う十分な施策は行われなかった。そのため結婚や就職などでの社会的差別は続いた。また、従来は彼らに許されていた特定の職種の営業独占権がなくなり、逆に兵役・教育の義務が加わったので、これらの人々の生活はかえって苦しくなった。
*十分な施策が行われたら問題は起きなかったという説明である。十分な施策の中味は何かということは説明されていない。営業独占権を保障し、兵役・教育の義務をかさなければ良かったのかということにもなる。
(実教、日A305、H25AB)18P
 1869年、政府は、新たに華族(公家・大名)、士族(武士)、平民(農工商)の身分を制定し、平民の苗字や華族・士族・平民間の結婚の自由、職業、居所の自由などを認める政策をすすめ(四民平等)、江戸時代の身分制は廃止されました。また、身分解放令が出され、えた・非人などもその差別呼称が廃止され、平民に組みこまれましたが、社会的差別はその後も続きました。
*身分解放令という言い方は適切でない。
(東書、日A308,H28B5)44P
 また、1871(明治4年)には、それまで身分外の身分とされたいたえた・非人の称を廃止し、身分・職業ともに平民同様だという布告を出した(賤称廃止令)。
*賤称廃止令という言い方が適切である。
(清水、日B306、H25B5)156P
 さらに、1871年には賤民廃止令(身分解放令)をだして、かわた(えた)・非人の身分や職業は平民と同様に取り扱うこととした。しかし、実際には、彼らに対する社会的・経済的差別は残された。
*なぜ、残されたのかという説明がない。
3、大正時代
(東書、日A308、H28B5)100P
 また「四民平等」とされた近代社会にあっても、長年にわたり多くの差別に苦しめられてきた被差別部落の人々は、みずからの力で解放に向けて立ち上がり、1922年全国水平社を結成した。(全国水平社宣言とポスターあり)
*特殊部落民という表現が書かれた水平社宣言を載せるのは時代錯誤で不適切。
(実教、日A309、H28B5)99P
 また、被差別部落の人々は、同情に頼ることなく自分たちの力で差別からの解放を勝ちとるために。全国水平社を創立した。(全国水平社宣言と説明、荊冠旗の説明あり)
*特殊部落民という差別語を使うことを是認するような説明は止めるべきである。
(清水、日A310、H28B5)108P
 明治維新における身分解放令のあとも、社会的な差別に苦し続けてきた被差別部落の人びとによる、平等を求める動きは活発化し、1922年には、全国から集まった3000人の被差別部落民が自分たち自身の行動で平等を実現し、差別に対して闘うことを決議して、全国水平社を結成した。水平社の運動は全国に広がり、1年後には全国に支部が結成された。(荊冠旗あり)
被差別部落民という人びとが存在していたことを前提にした不適切な説明である。
(山川、日B309、H28A5)331P
 被差別部落の住民に対する社会的差別を、政府の融和政策に頼ることなく自主的に撤廃しようとする運動も、西光万吉らを中心にこの時期に本格化し、1922(大正11)年、全国水平社が結成された。
*この程度の簡略な説明で十分である。
(第一、日A312、H28B5)112P
 1871(明治4年)にいわゆる「解放令」が出されたのちも、差別に苦しめられてきた被差別部落の人々は、自分たちの力で差別を撤廃しようと、1922(大正11)年に全国水平社を結成した。その後各地に水平社の支部がつくられ、部落解放運動が展開された。(水平社宣言、後半部分だけ、と説明がある)
*水平社宣言を載せるのなら後半部分だけで良い。
4,昭和時代
(山川、日B309,H28A5)401P
 この時期には、部落差別などにみられる人権問題も深刻となった。全国水平社を継承して、1946(昭和21)年に部落解放全国委員会が結成され、1955(昭和30)年に部落解放同盟と改称した。しかし、部落差別の解消は立ち遅れ、1965(昭和40)年の生活環境の改善・社会福祉の充実を内容とする同和対策審議会の答申にもとづいて、1969(昭和44)年には同和対策特別措置法が施行された。(注に地対財特法施行までの出来事がふれられている)
部落解放同盟という1運動団体だけを取り上げ、地対財特法が2002年に終了したことにふれられておらず、いまだに同和対策事業が続けられているという誤解を与える記述になっている。
(東書、日A308,H28B5)154P
 戦後の社会混乱のなかで、国民の生活を守るためのさまざまな活動が広がり、労働組合や農民組合、部落解放団体、女性解放団体、住民団体が組織された。
*この程度のあっさりとした記述で十分である。
(第一、日A312,H28B5)157P
 また、日本農民組合や、全国水平社の精神を受け継いだ部落解放全国委員会(のちに部落解放同盟に発展)が結成された。(注に特別措置法が制定されたことが書かれている)
部落解放同盟だけを取り上げ、同和対策事業が続けられているとの誤解を与える。

(3)現代社会教科書から

(東書、現社313,H28B5)66P
しかし、実際にはわたしたちの周囲には、多くの差別問題がある。植民地支配に由来する在日韓国・朝鮮人問題など、在日外国人に対する社会的差別はその一つである。被差別部落出身者への差別、アイヌ民族に対する差別、男女間の不平等、障がい者への差別や偏見などをなくすことも大きな課題であり、平等権の実現に向け、不断の努力が必要である。(注に、水平社宣言)
*時代錯誤の注、被差別部落出身者というのが存在することを前提としたとんでもない記述である。
(実教、現社314,H28A5)118P
部落差別の問題(同和問題)は、封建的身分制のもとでいやしい身分とされ、職業・住居・結婚等あらゆる生活面で差別的取り扱いを埋めてきた人々が、いまなお同じような差別を受け続けているという問題である。こうした部落差別の撤廃を求める運動は、1922年の「全国水平社」結成以来大衆運動として続けられてきた。国の対策としては、1969年に同和対策事業特別措置法が制定され、地域改善対策特別措置法(1982年)を経て、地域改善対策特定事業財政特別措置法(1987年)へと受け継がれてきた。
*50年前の現状認識、今も措置法が続いているかのごとき説明、運動や行政による問題解決の成果の説明がないのは致命的である。
(実教、現社315、H28B5)83P
 被差別部落の問題もまだ解決されていない、被差別部落の人びとは、1922年に「全国水平社」を結成し、差別の撤廃を求める運動を続けてきた。政府も1965年に同和対策審議会答申を発表し、差別解消をめざしてきたが、こんにちでも商業・居住・結婚などさまざまな面で差別が見られる。
*50年前の現状認識。「被差別部落はどこにあるのか?○○さんは被差別部落の人か?」と生徒から聞かれたら、どう説明するつもりだ。「今は、もう無いと 」教えなくてどうするのだ。
(清水、現社316,H28B5)104,105P
 現代の社会においても。人種差別、民族差別、男女差別、部落差別、障がい者に対する差別、病者に対する差別、そして「いじめ」など、不法・不当な差別や偏見・排除などが残っている。(注に同対審答申の一部が載せらている)
*1965年当時の現状認識を現在の現状認識として教えようとする内容である。
(清水、現社317,H28A5)107P
 歴史的に形成された身分制度にもとづく部落差別の問題もある。全国水平社の結成(1922年)にはじまる部落解放運動の発展とともに、第二次世界大戦後は、同和対策審議会答申(1965年)などにもとづく施策が進められた。だがこんにちでも、差別が全面的に解消されたとはいえず、その解決が国民的課題として急がれる。*清水版の教科書は、どれもこれも50年前の大昔の教科書だといわざるを得ない内容。
(帝国、現社318,H28B5)72P
部落差別も残っており、全国水平社が始めた部落解放運動は今も続いている。
*極めてあっさりとした記述。
(数研、現社319,H28A5)109P
政府は、差別の解消に向けて次のような取り組みを進めてきた。同和対策審議会答申(1965年)に基づく一連の同和対策事業・・・(注に答申を引用して部落差別の説明をしている)
*50年前の答申レベルの現状認識。
(第一、現社322,H28B5)58P
特に、被差別部落の人びとの、職業選択の自由、教育の機会均等が保障される権利、居住および移転の自由、結婚の自由などの市民的権利が侵害されいる。この問題の早急な解決は国の責務であり、国民一人ひとりの課題でもある。(注に全国水平社宣言が載せられ、日本初の人権宣言だという説明がある)
*約100年前の現状認識を生徒に教えている。

(4)政治・経済教科書から

(第一、政経309,H28A5)40P
被差別部落の人びとは、職業選択の自由、教育を受ける権利、居住及び移転の自由、婚姻のじゆうなどの市民的権利が侵害されている。この問題の解決は国の責務であり、国民一人ひとりの課題である。(資料として、全国水平社宣言の抜粋、同対審答申(抄)が載せられている)*現代社会の教科書と同じで、100年前の現状認識。
 東書、実教、清水、山川、などの教科書も、現代社会の教科書と同様の記述であり、問題点も同じである。

(5)私なりの結論
 高校の日本史、現代社会、政治経済 などの教科書をあらためて読んでみたが、山川の江戸時代の身分制の記述は教える価値はある。それ以外の教科書は、教える価値がない。教えない方がましであるという、結論になる。 教科書検定制度に関しては、あれこれ問題点があり、検定制度がないのが最良だと考えている。しかし、検定制度がある現状からいえば、教科書検定に携わっている学者、役人は、部落問題に関して教科書をきちんと読んだらどうだ、まじめに検定せんかいな、といわざるを得ない。