「フィレモンへの手紙」をどう読むか

 真生パウロ書簡のうちで、おそらく最後に書かれた手紙だろうといわれている。パウロからフィレモンへ出された私信である。個人宛の私信が新約聖書におさめられているわけだ。きわめて短い手紙である。
 この手紙をどう読むかということは、パウロをどう考えるかと言うことにも結びついている。つまり、聖パウロとして読むか、ローマ時代に生きた普通の人間パウロとして読むか、嫌な人間として読むかである。
 どの日本語訳で読むかによっても印象が違ってくる。例えば、フェデリゴ・バルバロ訳だと、実に偉そうに命令口調に書いている手紙になるし、フランシスコ会聖書研究所訳だと、実に優しくお願い口調に書いている手紙になる。パウロに関する印象が正反対になる。
 私には、田川建三訳がぴったりくるのだが。
 さて、手紙の中身だが、パウロがフィレモンに対して何を願っているのかに関しても、訳によって違ってくるのだ。新世界訳には、「オネシモが自由にされることを期待する」とある。新共同訳には「パウロ、オネシモのために執り成す」とある。オネシモために書いたという手紙なのか、パウロが自分のために書いたという手紙なのかというわけだ。
 それは、短い手紙なので読んでみれば分かるのだが。 パウロは、どことは書いていないが(たぶんローマだろう)、囚人の状態にある。パウロが洗礼を行って信者となったフィレモンが自分の奴隷であるオネシモをパウロの所に行かせて世話をさせていた。パウロはオネシモに洗礼を行い信者とした。
 オネシモに世話をさせていたが、フィレモンの所に返すことになった。そこで、フィレモンに手紙を書くことになった。「あなたが聞き入れてくれると信じて、この手紙を書いています。私が言う以上のことさえもしてくれるでしょう。ついでに、私のため宿泊の用意を頼みます。」(新共同訳)
 何を聞き入れてくれると思っているかだが、もう一度オネシモをパウロの所によこして世話をさせてくれと言っているのか、オネシモを信者仲間として扱ってくれと念を押しているのか、どちらかなのだ、いやどっちもか。 解放するための金はパウロは出さないが、オネシモを奴隷の身分から解放しなさいという意味だという説もあるが、そうではなかろう。
 他のパウロ書簡を読むと、パウロは、人間皆平等だから、キリスト教の信者は、奴隷をなくすべしなどとは言っていない。現実の社会関係はそのままで変えないが、宗教信仰上としては兄弟であり仲間として接しなさいと言うのがパウロの考えである。
 「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう。」(新共同訳)
 「していたら」は仮定文だから、現実にはしていないということだ。「わたしの借りに」と言った後で、「支払いましょう」とあるので、実際には支払う気はないということだ。
 この部分をどう解釈するかと言うことだが、オネシモに対するやさしさからこのようなことが書かれたのか、それともオネシモがパウロの世話をしたことによってフィレモンが損害を受けたというのなら、その分はパウロが弁償するという意味で書かれたか、どちらなのだ。
 パウロが書いた最後の私信を読むと、苦労人が持つ嫌みな意味での人間性(とても聖人とは思えない意味で人間的だ)を私は感じる。「俺は今、牢屋にいて困っているんだ、俺の世話をする奴隷がいなくなったら困るんだ。なんとかしてくれ。牢屋から出たら、そっちに行くから泊まる所も見つけておいてくれ。奴隷は信者になったから、そのつもりで接してくれ。」という意味の手紙だね。