八鹿高校事件とは

*八鹿高校事件とは
兵庫県養父郡の八鹿高校の教師集団が「部落解放研究会」の設置を認めなかったことを理由に、部落解放同盟兵庫県連の南但馬の同盟員数百名1974(昭和49)年11月22日、危険をさけて集団下校中の教職員66名を路上でおそい、無抵抗ですわりこんだ教職員にはげしい暴力をくわえて学校内に連れもどし、「糾弾」と称して校内で13時間にもわたって集団リンチをくわえ、 56名に重軽傷をおわせ、うち29名が入院したという日本の教育史上前例のない集団暴行事件。これに対L八鹿高校生、「解同」正常化連、高教組、共産党、民主団体、学者・文化人らが立ちあがり、共闘会議を結成、調査団の派遣、真相報告会や県民大集会の開催など、「解同」の暴力から生命・人権・教育をまもる闘いを展開。社会党など一部に「解同」の蛮行を弁護する動きもあったが、『赤旗』の報道や共産党議員による国会での政府追及がテレビで全国中継されるなかで、「解同」の蛮行に対する批判の声が全国的に高まっていった。その結果、 1975(昭和50)年 2月15日におこなわれた八鹿町および養父町の町長選で、公正・民主的な同和行政を公約した革新候補者が当選、また兵庫県当局も、「解同」の暴力的糾弾に加担した八鹿高校の校長ら 6名を処分 09 75年 6月19日〉するとともに、「解同」べったりの姿勢を改めざるをえなくなり、 1976(昭和51)年 2月26日には「窓口一本化事」の廃止を言明するにいたった。なお、八鹿高校事件で主犯の丸尾良昭ら10名が起訴され、有罪が確定した。有罪判決を受けたのにもかかわらず、丸尾らは、私有地に八鹿事件の真相が明らかにされないように、自らの顕彰碑を建てるなど無反省の姿勢をとり続けている。