賎民とは

 東西をとわず階級社会の成立とともに、賤視される人びとがでてくる。わが国でも 2・3世紀には奴稗が存在していたことが知れており、彼らは「奴隷」であり、社会の下層におかれ、賎しめられていた。古代国家が確立し、唐の律令制がとりいれられるに及んで、賎民制度が成立した。身分は大きく良と賎にわけられ、さらにその内部にさまざまの身分があった。
賎民は「五賎」といって、官戸・陵戸・家人・公奴ひ・私奴ひにわかれていた。また良民でも品部(ともベ・しなベ〉や雑戸〈ざっこ〉は一段低くみられた。古代賎民制は早く 8世紀から動揺をはじめ、 10世紀初めには令制における奴ひ身分も廃止された。
中世賎民の出現は、古代賎民制の解体ののちにみられる。系譜的には古代賎民のあとをひくものもあり、共同体から流出したもの、あるいは手工業者の一部も含まれた。これらが平安期に、死や血のけがれに触れるものとして、賤視が強くなった。中世社会は身分観念が一般化しており、下位の者は賤視されるのが通常であった。そうしたなかで下級の芸能者や宗教者を含む中世賎民が生活していた。現在では、このような階層を総称して「非人」とよんでいる。
鎌倉末期になると、賎民も分化し、職業や領主関係などによって名称も異ってきた。犬神人・河原者・織多・きよめ・坂の者・夙の者・声聞師などがそれである。近世社会の成立とともに近世賎民が成立し、「部落」の直接的な起源がこの時点に求められる。中世賎民はきびしい差別をうけたものの、移動も可能であった。
近世では検地・人改めにより、居住地を定められ、身分として把握されなおされた。身分にともなう職業・居住の別があったのは、すべての身分に通じるが、近世身分制の最下層に賤民がおかれた。それは大別して「穢多」、「非人」、「その他」に三分しうる。
穢多・非人が領主の賎民支配の中核になった存在であるが、その他にも雑多な賎民が存在した。加賀藩の藤内・山陰のはちやは地域的な特色があるが、また茶せん・さいく・夙の者・はちたたきなどが広汎に存在した。なかには藤内のように治安業務をあずかったものもあるが、他は領主としては一応の身分把握をおこなっておればよしとしたもののようである。
明治維新によって近世身分制は廃止され、「購民解放令」(1871年)が出された。