差別糾弾闘争とは

 全国水平社の創立大会で採択された「吾々に対し侮辱の意志を表示したる時は徹底的糾弾を為す」という決議にもとづく基本的な闘争戦術。この差別糾弾闘争は、部落住良の「人間としての自覚」をうながし、部落住民みずからの手による人間としての権利を奪還する闘いを意味していた。
しかし水平社運動の初期にあっては、部落差別の本質はおくれた人びとの偏見にあるとみなし、差別者個人に対する徹底的糾弾をつみかさねていけば差別観念は一掃できるものとしていた。したがって差別する者は、資本家・地主も労働者・農民もまったく区別されることなく徹底的に糾弾された。その結果、表だった露骨な差別はしだいに少なくなったが、差別的な感情は一向に解消せず、かえって人びとの意識の奥ふかく沈んでしまい、糾弾闘争のはげしさから新たに恐怖や憎悪の感情さえつけ加わり、それが支配階級の分裂支配に利用されて、逆に部落との対立の溝が深められることにもなった。
その典型的な一例が、群馬県の世良田村襲撃事件(1925年)であった。水平社は、こうしたきびしい試練をへて、やがて差別者個人に対する徹底的糾弾闘争の誤りを克服して、「労農水の三角同盟」など無産階級と連帯して運動の方向を差別の根源である地主制、天皇制、資本主義にむけていった。それとともに差別糾弾闘争についても、労働者・農民などの勤労大衆によってひきおこされる差別と、支配階級とそれにつらなる者によってひきおこされる差別とを区別し、前者に対しては差別の誤りを教育的に正すだけでなく、その糾弾闘争を「人民的融和の重要なモメント」としてしてかなければならない方向が明らかにされるに至った。
ところが、こうした歴史的な教訓にもかかわらず、分裂後の部落解放同盟はこの教訓を生かさず、利権獲得の手段として、今日においてもなお、糾弾闘争が部分的にくりかえし行い、部落解放運動の正しい発展をさまたげている。