橋本せつ子さん不当配転問題とは

大阪市浪速区の青少年会館における学童保育の指導員(大阪市民生局職員〉として勤務していた橋本さんが、狭山事件事を低学年で教えることに反対したことや、矢田問題の木下挨拶状を「差別文書」と認めなかったことで「解同」浪速支部から「糾弾」をうけたことに端を発し、「解同」に追随する大阪市当局が1972(昭和47)年8月23日、本人の意志を無視して業務を変更、中之島公会堂での研修を橋本さんに命じた事件。 1973(昭和48)年 2月14日、橋本さんがこのことを大阪市職の組合員にピラで訴えたことから、事件が明るみにでた。ところが、市当局はさらに、同年4月16日付で橋本さんを市消防局に不当配転させた。これに対し全解連をはじめ多くの民主団体や市民が、「橋本さんを守る会」を結成、市当局に対する抗議や不当配転の
「無効」を訴えて裁判をおこすなどのたたかいを前進させた。 6年にわたるねばりづよいたたかいの結果、市当局とのあいだに勝利の和解が成立、 1978(昭和53)年10月2日、大阪市立大学生活科学部児童心理学教室勤務をかちとった。