高松地裁差別裁判事件とは

1932 (昭和7)年12月に香川県鷺田(さぎた)村馬場の久本米ーらと丸亀市のカフェ一女給の石原政枝が坂出港に向う船中で知りあい、政枝はカフェーの前借金37円を支払い父が承諾すれば久本と結婚してもよいと話した。そこで高松市の友人宅で数日間同棲し、その問、金の工面にまわっていた。
ところがバクチうちの政枝の父親は、娘が結婚すれば金がはいらなくなるので、久本らを誘拐罪で訴えた。
1933(昭和 8)年 6月3日、高松地裁は、「自己の身分をことさらに秘し、甘言詐謀を用いて彼女を誘惑した」として久本らに懲役刑の判決をくだした。
これは、明治4年に「賤称廃止令」が出されて法制上はなくなっている「賤民」を、国家権力が法的に復活させる差別裁判であった。
全国水平社本部は、 6月20日北原泰作ら3人の幹部を現地に派遣し実状を調査するとともに、地域ごとに差別裁判糾弾闘争委員会をつくり、差別裁判取消要求請願行進をおこなうことを決定した。 10月1日に福岡市東公園を出発、東京まで沿道の各地域で、各地の日常要求と結びつけて真相報告の集会をひらき、納税・兵役の義務拒否を呼びかけ、請願署名と闘争カンパを訴えながら、一般の労働者や農民の支援をうけて、 1.200キロの大行進を成功させた。
広島・岡山・神戸・大阪・京都などでは消費組合が行進隊員の食事や宿舎の面倒をみた。東京着は19日であったが、その間56回の集会がもたれ、 4万人以上の人が活動に参加した。その結果、三浦裁判長は11月末に退職、警察署長は更迭、白水検事は12月に福知山区裁判所に左選、久本らは12月に仮釈放を勝ちとった。