差別意識とは

 広辞苑では、差別=分け隔て・違い・区別・理由なく劣ったものとして不平等に扱うこととある。
 差別意識に関しては記述はなく、一般的に言葉の意味として明確な定義あるとは考えにくい。
 忌避であるが、広い意味として、あるものや事柄について嫌って避けることとある。
 法律用語としては、「日本の法律においては、除斥事由には該当しないが、手続の公正さを失わせる恐れのある者を、申立てに基づいてその手続に関する職務執行から排除すること。」を忌避というとある。
 忌避意識に関しては、これまた一般的に言葉の意味として明確な定義があるとは考えにくい。
 差別は不平等に扱うことであり、忌避は嫌って避けることであり、意味は明確に異なる。よって意識をして差別をするのと、意識をして忌避をするのとは明確に異なる。
 この差別意識に関して、2010年に行われた大阪府民意識調査の分析編で(2012年3月発表、大阪府のHPで誰でも読める)神原文子氏は、忌避意識を測るとして、分析編P14で、
『なお、忌避意識イコール差別意識ということではなく、忌避意識は様々な差別意識の一種であることを押さえておきます(神原 2011)』
として、差別意識の一種として忌避意識はあると言っている。
 そもそも忌避意識は差別意識の一種だという認識自体が間違いである。忌避することと、差別することとは行動様式そのものが異なるのである。行動様式が異なれば、その意識自体も異なると考えるべきである。異なる意識を同一視するのは間違いである。
 昨年、八尾市の人権啓施策の担当者は同和問題の解決とはいかなる状態かと尋ねられて、「市民の差別意識がなくなったときです。」と答えた。差別意識が無くなったかどうか、何を持って判断するのかと尋ねると、「・・・」であった。差別という行為、言動があって始めて、意識してやったのか、無意識にやったのが判断されるのである。
 人間には、そもそも内心の自由がある。何を思い、何を考えてもそれは自由なのだ。部落差別をしてはいけないが、「部落差別をしてやろう」と思うことは自由である。
 このことは、殺人ということについて考えるとすぐに分かることである。殺人という行為があって、殺人者が殺人意識(殺意)があったか、殺意がなかったが問われるのである。また殺意のあるなしは、その行為がいかなるのであったということから判断されるのである。殺意なしでも殺人行為はできるのは常識である。また殺人意識(殺意)があれば、殺人行為が起きるわけでもない。
 殺人意識(殺意)をなくせば、殺人行為がなくなるわけでもないのである。
こういうような常識がない、八尾市のような人権啓発担当者、人権施策担当者がいるうちは、部落問題などの解決はほど遠いと言わざるを得ない。