「部落民宣言」「立場宣言」をどう考えたらよいのでしょうか。

 狭山事件を「差別裁判」として闘争をすすめてきた部落解放同盟が、1976年におこなった全国一斉の同盟休校闘争でとった戦術が始まりであり、小・中・高校の部落解放同盟関係者の児童・生徒に「自分は部落民です」と級友の前で宣言させることによって、差別と闘い・差別に負けない・差別を許さない人間となり、「部落民として解放される」と主張された。
 大阪においては、府教委、地教委が容認する姿勢をとったことにより、「立場宣言」という名称に変えて今でも行われている。「自分は部落民です」「母子家庭で育った」「在日朝鮮人である」というような立場を生徒集会などで発表させて、自覚と誇りを持たせることが大切であるという主張です。
 特別措置法が終了し、法的に「同和地区」自体がなくなって10年がたち、そもそも誰が「部落民」かどうかの客観的な基準すらなくなっているのに「宣言」させること自体が時代錯誤です。祖先が武士であるという「武士宣言」、祖先が公家である「公家宣言」なるものをさせて自覚と誇りをもたせようとするのと同様に時代錯誤の教育です。
 プライバシーの保護がとりわけ重要視される現在、自分から公言すれば良いと言って、公教育の場で個人情報を明かにさせる教育をすることは誤りです。
 「部落民として解放される」という考えからは、「互いの人権を認め合い、共生していける社会」という「部落解放像」が浮上してきますが、部落問題は異なった人種や民族問題ではなく、同一民族内の封建的身分制の問題であり、「共生」理論の部落問題への援用は、旧身分の固定化に通じる時代逆行の反動的な役割を担うもの以外の何ものでもありません。