社会身分形成説

社会身分形成説


 高校日本史の教科書で代表的な教科書が、山川出版社「詳説日本史B」である。2010年3月5日発行の最新版の記述には,部落問題に関する最新の研究成果が取り入れられている。社会身分形成説というべき「身分秩序」論である。昔から言われてきた「士農工商」は、そういう呼び方もあるといった程度である。
 近世社会の部落問題に関して、従来から政治起源説、職業起源説、などなど諸説が唱えられてきたが、社会身分形成説というのが、一番妥当だと思われる。
 以下、「詳説日本史B」から、その部分を抜き書きする。

身分秩序(「詳説日本史B」170ページ)

 近世社会は,身分の秩序を基礎に成り立っていた。武士は政治や軍事を独占し,苗字・帯刀のほかさまざまの特権を待つ支配身分で,将軍を頂点に大名・旗本・御家人などで構成され、主人への忠誠や上下の別がきびしく強制された。天皇家や公家,上層の僧侶・神職らも武士と並ぶ支配身分である。
 被支配身分としては,農業を中心に林業・漁業に従事する百姓、手工業者である職人、商業を営む商人を中心とする家持町人の三つがおもなものとされた。こうした身分制度士農工商とよぶこともある。
 このほか、一般の僧侶や神職をはじめ、儒者・医者・修験者・陰陽師などの宗教者、芸能者など職業や居所によって区別される小さな身分集団が多数あった。
 そのなかで,下位におかれたのが,かわた(長吏)・非人である。かわたは百姓と同じように村をつくり,農業をおこない,皮革の製造やわら細工などの手工業に従事したが,死牛馬の処理や行刑役などを強いられ,江戸幕府の身分支配のもとで「えた」という蔑称でよばれた。
 また貧困や刑罰により非人とされるものもあり,対や町の番人や清掃・乞食・芸能に従事した。かわた・非人は居住地や衣服・髪型などで他の被支配身分とは区別され、賤視の対象とされた。
 これらの諸身分は,武士の主従制,百姓の村,町人の町,職人の仲間など,団体や集団ごとに組織された。そして一人ひとりの個人は家に所属し、家や集団を通じてそれぞれの身分に属するのが原則であった。武士や有力な百性・町人の家では,戸主の権限が強く,家の財産や家業は長子を通じて子孫に相続され,戸主以外の家族は軽んじられた。また女性は家の財産やその相続人となる家督から除外されるなど,その地位は低いものとされた。

四民平等(「詳説日本史B」241ページ)

 国内統一と並行して,封建的身分制度の撤廃も進められた。版籍奉還によって藩主と藩士の主従関係が解消され,藩主を公家とともに華族藩士や旧幕臣を士族とした。同時に「農工商」の百姓・町人は平民となり,苗字(名字)が許され,華・士族との結婚や,移住・職業選択の自由も認められて,いわゆる四民平等の世になった。
 また1871(明治4)年には,旧来のえた・非人などの称をやめて,制度の上では平民同様とした。1872(明治5)年には,華族・士族・平民という新たな族籍にもとづく統一的な戸籍編成がおこなわれた(壬申戸籍)。これらの身分割改革によって,男子に限られたとはいえ,同じ義務を待つ国民が形成された。

形式的な解放令(「詳説日本史B」242ページ)

17世紀末ころから幕藩体制が変化しはじめると,幕府や諸藩は、最下層の身分であるえたなどに対し,居住地・職業・服装などの生活のあらゆる面において差別を強化し,宗門帳の別帳化をはじめ農工商との差別を深めさせた。このため、18世紀後半ころから、これらの人びとの抵抗運動が強まり、身分をかくして居住地から抜け出したり,百姓一揆に加わったりした。幕末・維新期には,幕府や一部の藩ではみずからの勢力を補強するために、賎民身分から抜け出したいという彼らの切望を利用して,御用金の上納や軍役の徴用をはかる見
返りとして一部を解放したが,幕府の崩壊により解放は中断した。
 新政府は、四民平等のたてまえや外国への体裁や民間からの建議などもあって,1871(明治4)年8月,今後は、賎民の身分・職業を平民と同様に取り扱ういわゆる解放令を布告した。
 政府が解放令を出したことの意義は大きかったが,それに見合う十分な施策はおこなわれなかった。そのため、結婚や就職などでの社会的差別は続いた。また従来は彼らに許されていた特定の職種の営業独占権がなくなり,逆に兵役・教育の義務が加わったので,これらの人びとの生活はかえって苦しくなった。