矢田事件とは

1969 (昭和44)年 3月13目、大阪市教組東南支部役員選挙で、書記次長に立候補した木下浄教諭が労働条件の改善などを訴えた挨拶状を組合員に配布したのに対し、部落解放同盟大阪府連と矢田支部は、挨拶状を「差別文書」と一方的に断定、推せん文に名前をつらねた教師15名を「差別教師」として、暴力的糾弾をおこない屈服させようとした事件。
しかも解放同盟中央本部は、矢田事件を「ふみ絵」にして、木下挨拶状を「差別」でないとする県連・支部・個人を一方的に組織排除し、組織の私物化を行った。
大阪市教委は「解同」に追随して木下教諭らを「差別者」扱いにして、8年聞にわたって教育現場から隔離し、大阪市教育研究所での研修を強制した。木下教諭らは、「解同」一部幹部らを「逮捕監禁・強要未遂罪」で告訴するとともに、大阪市を相手に民事訴訟をおこし、刑事訴訟に対する大阪地裁の不当な 1審判決 1975年 をものりこえてねばりづよくたたかいをつづけた。その結果、 1979(昭和54)年10月30日の民事訴訟の1審判決では、木下教諭らの主張が全面的にみとめられ、処分は違法であるとし、大阪市に対して総額 1,140万円の慰謝料の支払いを命ずる判決を、大阪地裁からかちとるとともに、 1981年3月10日の刑事訴訟の 2審判決でも、「解同」幹部戸田被告に対し、 1審の無罪判決を破棄し懲役3月(執行猶予 1年〉の逆転有罪判決を大阪高裁から勝ちとることができた。