解放令と反対一揆とは

封建的身分制の最下位におかれた「えた・非人」などの「賎民」身分の解放を宣言したもので、 1871(明治 4)年 8月28日、太政官布告第 448号として出された。解放令の全文は、「穢多・非人等ノ称廃セラレ候条、今ヨリ身分職業トモ平民同様タルベキコト」という簡単なものであるが、賤称を廃止するとともに、「賎民」としての身分を解放し、職業の自由をうたったことは、身分差別を弱め解消させていくうえできわめて大きな意義をもつものであった。しかし、法の前の平等というタテマエが解放令によって示されただけであって、そのタテマエを実現するための行政上の措置は何もとられなかっただけでなく、逆に納税・兵役・教育などの義務は平民なみに押しつけられたため、地域の人びとの生活は以前にもまして苦しくなることさえあった。そのため、日常の社会生活上の差別は容易に改められなかった。

1871 (明治4)年 8月に布告された「賎民」解放令に反発してひきおこされた農民一揆。賎民解放令反対を主たる要求、あるいはいくつかの要求の 1つとしてかかげた農民一揆は、 71年から73年にかけ、京都・兵庫・岡山・広島・福岡などの西日本に集中していた。解放令反対一揆には、大きく分けて 2つ類型があった。 1つは年貢減免、徴兵・学制反対などの諸要求のなかの 1つとして解放令反対をかかげたものであり、他の 1つは解放令を契機とする「部落民」の自覚的行動に対し、反発したものである。こうした事実から、当時の農民の差別意識の根強さだけを強調する考え方もあるが、農民をふくめた国民一般のなかに差別意識が強く残っているのは、当時として当然のことであって、問題は、それがなぜ暴動として爆発したかということである。明治維新への期待を裏切られた農民の深い不満が一方にあり、それを暴動へとねじまげていった村落指導層・一部士族層の煽動のあったことを見のがしてはならない。