秩父事件(秩父の乱)とは

明治政府、松方デフレ政策による不況と兇作により農民の生活苦が全国的に深刻化するなかで、 1884(明治17)年、埼玉県秩父郡の農民が「困民党」を組織、自由党左派の指導のもとに借金返済期限の長期延長、諸雑税の減免などの要求をかかげて、 10月31日、 3,000人以上が武装蜂起、郡役所・戸長役場・裁判所・高利貸などを襲い、一時は秩父全郡を支配下においた。年号を自由自治元年として、日本初の人民革命政権たらんとした。県当局は、警察隊に加えて憲兵隊の力でこれをおさえようとしたが、農民のはげしい抵抗のまえに失敗した。明治政府の派遣した軍隊と戦ったが、11月11日に敗れた。秩父事件秩父の乱)は、税の減免などの生活次元の要求にとどまることなく、問題の根本的解決の不可欠の条件である政治変革をも求めて、より広範囲な多数の農民が自由民権運動の思想、を血肉化し、主体的・組織的にたたかったところに、画期的な意義があった。