失業対策事業とは

公共事業にできるだけ多数の失業者を吸収し、その生活の安定をはかることを目的として、 1949(昭和24)年 5月に「緊急失業対策法」が制定された。もともと失業・半失業者が多かった地域では、この法律の適用をうけて失対事業に就労する者がとくに多かった。
ところが政府は、低賃金政策の維持・強化にとって失対がさまたげとなることをおそれ、失対打切りをめざして1962(昭和37)年 5月に失業対策問題調査委員会を発足させ、翌年 2月に失対法の「改正」案を国会に提出した。その内容は、 63年以後は失対に新しく就労できないようにし、すでに就労している者も失対から追いだし、 63年現在で33万人の失対就労者を 5年後の1968(昭和43)年には6万人にへらすというものであった。これに対し当時の部落解放同盟は、全日本自由労働組合と共同闘争委員会を組織し、「改正」案が国会を通過したあとも、その撤回を要求してたたかいつづけた。
その結果、新規就労者をかちとるなど、一定の成果をあげたところもあった。
ところが1965年、右傾化しつつあった解放同盟は、政府が「改正」失対法が部落出身者については「就職が特に困難な失業者」として失対就労の年令制限を撤廃したことをうけて、「社会的ハンディキャップをもつ部落民に対して行政上の特別配慮をせよと要求する同盟の主張がいれられたもので、われわれの闘争の成果(第20回大会方針書〉と評価して、共同闘争委員会を脱退した。
こういった犯罪的分裂行動が、失業対策事業を終了させられる遠因となった。