部落民宣言の実例、武田緑「地名を明らかにすること」

解放新聞大阪版2013年10月25日から
第2回マスコミ懇談会の記事が載っている。武田緑が「部落の地名や所在地を明らかにすること、隠しきれないこの社会で」とテーマに講演した内容の要点が載せられている。
 武田の人物紹介で小、中、高校で部落民であるという「立場宣言」を引率して行ってきたとある。
 以下、記事の引用。
「部落を開示することは差別を生み出すリスクはあるが、出身者が誇りを持って部落を開示することと部落差別を助長する行為として悪質に開示するのとは意味がちがう。
 部落出身を伝えることにためらいはないが地名を言うと部落を特定でき、そこに暮らす他の人の分まで勝手にカミングアウトしてしまうことになり個人の問題でなくなってしまう。
 部落差別の多くが忌避意識、関わりたくないと意識的に排除されてきた。それと反対に部落と関わることで部落を身近な地域の問題として捉えてもらうためにも部落を明らかにするほうがいいのではないか。」
 彼女の主張が要約されている。
 彼女でも、「部落を開示することは差別を生み出すリスクはある」ことは、認めざるを得ないのだ。そりゃあそうだろう、何の問題もありませんとは、言えないでしょう。
 ところが、出身者が誇りを持って開示することは、是認するのだ。武田さんに尋ねるが、そもそも出身者かどうか、だれがどのようにして判断するのだ。自分がそうだといえばそうなのか?
 かつて、同和対策事業がなされていたとき、部落解放同盟は、同和事業の対象者(武田さんの言う部落出身者かどうかということ)の認定判定を行政が行うことは差別だと言って、窓口一本化と称し認定判定の権限は解放同盟にあると主張し、行政に認めさせていた。
 その結果、解放同盟の同盟員以外は、同和対策事業から排除されたのだ。裁判所が、この窓口一本化の誤りを認めると、今度は同和事業促進協議会(実質は解放同盟)の認定判定が行うという具合に、やはり解放同盟以外の対象者は排除されるという状態が続いたのだった。
 武田さん、部落解放同盟によって排除された人たちは、部落出身者ではなかったのでしょうか?
 同和対策事業が終了して10年以上たつ。武田さん、まさか部落解放同盟が認定判定するとは言わないでしょうね。同和事業促進協議会を引き継いだ人権協会が、認定判定するとは言わないでしょうね。
 武田さんに、あらためて尋ねるが、かつて同和対策事業がなされた地域で生まれた人は、出身者と言えるのですか。その地域でかつて住んでいた人が、出身者といえるのですか。現在住んでいる人が、出身者ですか。それとも、客観的なものでなくて、主観的に自分がそうだと言えばそうなるのでしょうか。
 さて、武田さんは、「出身者が誇りを持って開示すること」は良いことだと言っているが、では「出身者が誇りを持たずに開示すること」は、どうなのですか。「誇り」を持っているのかどうかは、いったい誰がこれまた判断するのだ。
 「部落出身を伝えることはためらいはない」とのことですが、こういうことは、好きな人がまさしく勝手にやるものですから、勝手にやってくだされば良いのです。
 このようなことは、「公家出身を伝えることはためらいはない」とか「武士出身を伝えることはためらいはない」とか、最近は「明治天皇のひ孫」を売り物にする人とか、勝手にやってねというたぐいだ。
 「誇りを持って」とか「誇りを持たず」とか「悪意を持って」とか、あれこれ言った割には、地名を言って部落を特定できることにに対しては、そこで暮らす人に対しては、さすがに勝手だろうとは言えないようだ。
 言ってほしくないと言う人がいるのが当然ですね。行政も口が裂けても、どこどこ地区がそうです、そうだったですとは言わないのに、武田さんも個人の問題ですとは、言えないですね。
 それじゃあ、言ってほしくないという人がいるのに、「部落を身近な地域の問題として捉えてもらうためにも部落を明らかにするほうがいいのではないか。」という結論を導くのは、論理矛盾ですねえ。
「部落を身近な地域の問題として捉えてもらうためにも部落を明らかにするほうがいい」というのであれば、そもそも誰が言おうと良いわけで、行政がどこどこ地区は○○ですと、広報に書いたってよいということになるではないか。悪意を持って、悪質に明示したって、部落を身近な地域の問題として捉えてもらうことになるわけなのだ。
 武田さん、あなたの言っていることは無茶苦茶だという認識を持たれることを切に祈ります。