全国水平社とは

*全国水平社とは

戦前の部落解放運動の全国組織。 1922(大正11)年 3月 3 日、京都市岡崎公会堂に全国から 3,000余名を集めて創立大会を聞く。水平社という名称は、差別のない水平社会をめざすという意味をこめて阪本清一郎が発案したという。また、 17世紀のイギリス革命のさいの左派政治集団「レヴエラーズ(水平派)」にならったともいわれている。創立当時の主な活動家には、南梅幸(京都・初代中央執行委員長)・西光万吉(奈良)・阪本清一郎(同)・駒井喜作(同)・米田富(同)・山田孝野二郎(同)・泉野利喜蔵(大阪)・岡部よし子(同)・桜田規矩三(京都)・近藤光(埼玉)平野小剣(東京)・北村正太郎(三重)・上田音市(同)らがいた。水平社の運動はほぼ次の 4期に分けることができる。
 第1期(1922〜1925年〉この期の運動の特徴は、差別の本質を偏見の問題として把握し、そのあらわれである差別的言行にたいして徹底的糾弾という戦術で対抗したという点にあった。人聞を冒演するどんなに些細な差別も許さない徹底的糾弾闘争をとおして、自らの人間的自覚を深め、またそれらの抗議行動が、日本社会にあらためて人間平等の課題の重要性を提起した意義は大きい。この糾弾闘争によって、確かに表面的な差別は後退したが、それは差別意識そのものが弱められたというより、激烈な水平社の糾弾行動に対する恐怖にもとづくところが大きかった。この困難を打開するため、 1923(大正12)年11月、水平社内部の進歩的青年たちは、高橋貞樹の指導のもとに「全国水平社青年同盟」を結成、機関紙『選民』を刊行して、階級的立場から運動の転換を主張した。
 第2期(1925〜1931年〉全国水平社第 4回大会(1925年 5月〉にたいして、青年同盟は運動方針案に相当する宣言草案を提出した。それによると、従来の差別観念にたいする徹底的糾弾を一歩すすめて、「差別の根本組織」にむかつて運動を展開しなければならないこと、そのためには労働者階級と提携して政治 闘争に進出しなければならないことを力説していた。この草案は、純水平運動 を唱える右派、および一切の政治闘争を拒否するアナーキスト一派の反対で保留となった。しかし、方向転換をもとめる運動の流れは動かしがたく、大会では青年同盟の中村甚哉・木村京太郎らが新たに本部理事に選ばれ、刷新派の影響力をつよめていった。そして、翌26年の全水第5回大会で綱領の一部を改正して、それまでの差別観にたいする徹底的糾弾を運動の一部としてとらえなお し、闘争の主力を差別観念を支える権力機構にむけて政治闘争として発展させていく方向を確立した。これにたいして、平野小剣らのアナーキストは、第 4 回大会直後「全国水平社青年連盟」を結成して対抗していたが、ついで26年「全国水平社解放連盟」をつくって組織をわり、また純水平運動を主張する南梅吉らの右派も、 1927(昭和 2)年「日本水平社」を結成した。
 第3期(1931-1937年〉大恐慌を契機に階級闘争が激化し、地域住民の階級組織への組織化がすすみ、身分組織としての水平社の影響が弱められてくると、全水の指導権をにぎる左派は、 1931(昭和 6)年12月の第10回大会に「全国水平社解消の提議」(水平社解消論事〉を意見書として提出、水平社内外に大きな反響をまきおこした。解消派は間もなくその誤りを自己批判して、 1933年 2月、新たに「部落民委員会活動」(のちに「部落委員会活動」と改称〉を提唱した。それは直接的には「全農全国会議派」の農民委員会活動に学んだもので、水平社に結集した地域住民を中心に、諸階層の要求を個々に組織してたたかう大衆闘争の形態で、いわば「多数者獲得」をめざす戦術であった。水平社は、部落大衆のそうした多様な日常的生活要求獲得のたたかいをとおして、反戦・反ファッショ、民主主義と生活擁護のたたかいの一翼としてつらなっていった。
 第4期(1937-1941年) 1937 (昭和12)年9月、日中戦争開始2カ月後の拡大中央委員会で戦争協力を表明、組織的に転向を声明、水平社の民主的伝統は消えた。そして1941年12月、太平洋戦争とともに施行された「言論・出版・集会・結社等臨時取締法」で「思想結社」と認定され届け出を義務づけられたが、法定期間の過ぎた1942(昭17)年 1月、願書不提出という形で法的にも消滅した。


*全国水平社解放連盟

 全国水平社事の政治闘争への進出に反援して結成されたアナーキスト系の組織。全国水平社が第4回大会(1925年 5月7-8日〉で民主的な集中組織を基礎に無産階級と連帯して政治闘争に進出することを決めると、さきにスパイ事件で除名された平野小剣らは、あくまで自由合意にもとずく組織と政治闘争反対を主張して、自由青年連盟を結成〈同年 5月15日〉。ついでこれを全国水平社青年連盟と改称〈同年10月18日〉、全国水平社青年同盟とはげしく対立した。翌年の全水第 5回大会で綱領が改正されるにおよんで、青年連盟は、水平運動は共産主義化したとしてこれと決別、全国水平社解放連盟を結成、主として中部、東日本の部落に影響力をもった。全水内の対立・分裂は、第 6回大会(1927年〉でもっとも激化したが、 3・15事件および 4・16事件の弾圧で全水本部の活動家の大部分が投獄されたのを機に、本部再建をめざして組織統一の動きが強まり、全水第8回大会(1929年〉直後、解放連盟はみずから組織の解体を宣言、平野ら一部をのぞき大部分が全水に復帰した。