国民融合論とは

*国民融合論とは

 戦後日本社会の変化に即して部落問題解決の展望を示した解放理論。その理論的構造を列記すると、次のとおりである。
1,部落差別は、歴史的には封建社会の身分制に起源をもつもので、したがって部落問題の本質は封建的身分差別である。
封建的身分差別の解決は、歴史的にはプルジョア民主主義革命(市民革命)の課題であり、徹底した草命をなしとげた社会では基本的に解決されている。
2,明治維新は、ブルジョア民主主義革命としては不徹底であり、ブルジョア的改良にとどまった。その結果、封建身分を制度のうえでは解消してそれなりに一定の進歩的役割を果たしたが、社会の構造に半ば封建的な仕組みを残し、それが物質的基礎(土台)となって、部落差別は温存された。
3,第二次世界大戦の敗北と戦後改革をとおして、部落差別を残し支える物質的基礎はなくなった。同時に、民主主義の確立・発展をめざす国民大衆の自覚的な運動も大きく前進してきた。
4,その結果、部落差別は基本的に解消の過程をたどってきており、部落問題解決の主体的ならびに客観的条件は大きく成熟している。したがって、部落差別を利用して利権を図る部落解放同盟や部落気泡同盟に追随する行政などの策動をやめさせれば部落問題は解決できる。
 国民融合論を成立させる直接的契機となったのは、 1974(昭和49)年11月の兵庫県の八鹿高校事件を頂点とする部落解放同盟事の部落排外主義にたいする批判の高まりであった。部落差別を過大に評価して、差別糾弾闘争を絶対化する部落解放同盟を中心とする運動にたいする批判は、部落内外に拡がり、 1975年3月には、阪本清一郎、上回音市、木村京太郎、北原泰作、岡映ら、全国水平社の創立者をふくむ部落解放運動の戦前からの中心的な活動家7名が発起人となり「部落解放運動の現状を憂い正しい発展をねがう全国部落有志懇談会」が結成され、同年 9月これを 1つの母胎として部落内外の民主的団体・個人を網羅した「国民融合をめざす部落問題全国会議」が結成されるにいたった。 「国民融合」が運動のスローガンとしてとりあげられた最初である。そして、翌76年3月「部落解放同盟正常化全国連絡会議」が「全国部落解放運動連合会」に発展的に改組し、国民融合をめざす部落解放運動を提起するにおよんで、戦後部落解放運動の新しい潮流の解放理論として定着するにいたった。
 国民融合論の形成にとって大きな示唆をあたえたのは、戦前の水平社運動事における「階級的融和」、およびその発展としての「人民的融和」の理論であった。この時期は水平社運動の第3期で、部落委員会活動によって特徴づけられているが、そのさい差別糾弾については、支配階級の差別と、彼らに利用されている労働者・貧農など勤労大衆の差別とを区別し、後者については教育と説得によってその考えを改めさせ「階級的融和」の契機としなければならないと主張していた。
 「階級的融和」論にかわって、「人民的融和」論がはじめて水平社の運動方針書にでてくるのは、 1935(昭和10)年 5月の全水第13回大会からであった。それによると、「差別観念の反社会性」は、「被圧迫部落大衆に対し、平等な権利を保証しない許りでなく、かかる身分制によって職業・住居・婚姻等社会生活の全領域に亘って市民的自由を拒否する点にある」と主張していた。部落差別の核心が市民的自由と権利の問題であり、したがってそれがプルジョア民主主義の課題であることを明確にしたわけである。こうして、「糾弾闘争を通じて、被圧迫部落大衆の生活を擁護伸張せしめ、これを人民的融和の重要なモメントとし、かくして被圧迫部落大衆の解放条件」たらしめる、という「人民的融和」の考え方が示された。しかし、この「人民的融和」論は、理論的・実践的に十分展開しないまま、水平社のファシズムへの屈伏とともに、天皇制支配を絶対化し、天皇の名において国民相互の融和をはかり、それに従わせようとする「支配階級本位の国民的融和」論にとってかわられた。