融和主義とは

部落問題特有の用語で、一般的には差別撤廃をめぐる運動や政策における協調主義ないしは改良主義的考え方をさしている。時代とともに、その使われ方にも変化があった。「融和」という言葉がひろく使われるようになるのは米騒動以後のことで、 1919(大正 8)年 1月、政府が開いた第2回細民部落改善協議会で「部落民と部落外の者との徹底的融和」が協議され、翌2月には帝国公道会が第1回の「同情融和大会」を開催している。当初は「部落民」にたいする同情によってその怒りをなだめる「宥和」という意味がつよかった。その後水平社運動の成立、発展とともに、「思想善導」「贖罪」といった意味をもつようになり、ついで水平社による「人民的融和」論にたいして「国民的融和」論をもって対抗し、天皇の名のもとに国民相互の融和を強調して「部落民」を戦争にかりたてるスローガンとなった。
 戦前においては、総じて差別の事実、原因に目をつむり「部落民」の要求を低位な環境の改善・改良の枠にとじこめながら、もつばら一般国民の偏見を正すことに主眼がおかれていた。戦後、この言葉は運動用語となり、一般的には徴温的な行政の姿勢や保守的な運動の潮流にたいして批判するさいに使われた。解放運動の分裂 (1965年)後の部落解放同盟は、この言葉をみずからの意向にしたがわない運動や理論に「融和主義」のレッテルをはりつけけた。
 これに対して、水平社運動の理念をを正しく受け継いだ部落解放運動総連合会(現地域人権連合会)は、「人民的融和論」を発展させた「国民融合論」を展開した。